校区の中心は、江戸時代「見付宿」として栄え、明治には磐田郡役所も置かれ、中遠地方の政治・経済等の中心として発展してきた。明治22年東海道本線中泉駅が開設されると中心は中泉地区に移ったが、戦後、道路交通網の発展に伴い、国道一号・同バイパスが開通し、大企業の進出や宅地造成も進み、再び活力を取り戻した。児童数は2,100人を超え、昭和55年には富士見小学校を分離した。
校区の人々は見付町人の自治の精神を受け継ぎ、教育に熱心で、学校教育には高い関心と期待を寄せ、協力的である。PTA活動も主体的で学校と連携した取組みが行われている。
このような背景をもつ子どもたちは総じて社交性に富み、素直で勤勉である。だが、一部には自分に自信がもてず人間関係に臆病な子どもや規範意識が低い子どもが見られ、城山中学校における不登校や不適応への関連が懸念される。
そこで、「ほやこげパワー」を合い言葉にした様々な教育活動により自己肯定感を高め、強く、しなやかな心をもった子どもの育成に取り組んでいる。
大イチョウ

大正14年当時の卒業生が植えたというイチョウで、東側の樹は平成7年3月県道の拡幅工事のため、今の位置に移植された。
見付酒井太鼓

平成8年に創設され活動を開始。
子ども厄除け地蔵尊 平和の碑

[石碑碑文]
太平洋戦争末期、昭和20年5月19日の昼近く空襲警報が発令された。田中小苗訓導が引率する河原・幸町等の児童は、学校から直ちに退避、磐田工業学校(現磐田北幼稚園)の正門付近へさしかかった。その時飛来した米空機B29が投下した爆弾が、道路の南側の溝に伏せていた児童を直撃した。時に午前11時40分であった。
この爆発で田中小苗訓導が殉職、児童28名が死亡した。現地には翌年慰霊碑と「子ども厄除け地蔵」が建立された。以来毎年この日に慰霊祭が行われている。
戦後半世紀を経て、この碑が子どもたちが生命と平和の尊さを後世に語り継いでいけるようにとの強い願いを込めて建立された。
平成8年5月19日
磐田北小学校 見付地区有志 他
5月19日は、磐田北小にとってとても大事な日であり、忘れてはならない日です。
1945年5月19日。その頃日本は戦争をしていて、空から爆弾が落ちてくるのが当たり前の恐ろしい毎日でした。
その日は、梅雨入り前のどんよりとした曇り空だったそうです。それでも朝から学校が始まりました。しかし10時過ぎに、空襲警報(爆弾を落とす飛行機が近づいてきたから避難しなさいというサイレン)が出て、通学班別に集団下校をすることになりました。幸町・河原町のグループは田中小苗先生と共に、北高の坂を上って帰って行きました。しかし、飛行機や爆弾の落ちる音が近づいてきたので、道路横の溝の中に全員隠れたそうです。その隠れていた場所に、爆弾が落ちて大爆発を起こしました。青白い強い光と耳が聞こえなくなるくらいのものすごい音と共に、大きな石のかたまりが降ってきたそうです。
動かなくなった田中先生、飛び散ってしまった子どもの手や足、ぼろぼろになった服やカバン、なぎ倒された竹やぶの間にあいた大きな穴、竹に突き刺さった体の一部。まるで地獄のような光景だったそうです。亡くなった子どもたちの遺体が集められた場所には、子どもたちのお父さんや母さんの泣き叫ぶ声がいつまでも響き渡っていたそうです。
たった一発の爆弾によって、19歳の田中先生と6歳から12歳までの28人の児童の尊い命が一瞬にして奪われてしまったのです。とても悲しいことです。
今、私たちは平和な世の中にいます。ほしい物は手に入り、やりたいこともやれます。しかし、29人のみなさんは戦争のために命を落としてしまいました。人々の幸せな生活を奪い取ってしまう戦争を、私たちは二度としてはいけないと思います。
毎年5月19日は、戦争のない世界を作るために自分たちはどんなことができるか考える日にしてほしいと思います。
戦争が終わり、1年後に子ども厄除け地蔵が建てられ、慰霊祭が行われるようになりました。また、平成8年には磐田北小学校の西門近くに「平和の碑(いしぶみ)」が建てられ平和を祈る集会を開くようになりました。5月には、総合的な学習の時間などに平和学習を行っています。